『プリースト 悪魔を葬る者』で、アガトは何を歌っていたか

『プリースト 悪魔を葬る者』に出てくる外国語のテキストを翻訳するブログです。

チャン監督のインタビュー

www.focus.kr

この記事を翻訳しました。2015年11月18日の記事です。

本の雑誌や新聞を読んだことがあまりないので、ぎこちない文章になってしまうかもしれませんが、なるべく意味が通じるように頑張ります。

 

これから先はネタバレを含みます。十分ご注意ください。

 

※ここからはネタバレを含みます※

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チャン・ジェヒョン「『黒き司祭達2』の製作?今はまだ…」

 

「キム・ユンソクとカン・ドンウォンは、いいシーンを作ってくれるベテランの俳優たち」

「悪魔祓いという重い題材に、人間を肯定するというメッセージを込めたかった」

 

f:id:Agatho_Dica:20161110164208j:plain

 

(ソウル=フォーカス・ニュース)「キム・ユンソクとカン・ドンウォンはベテランの俳優たちだ。私より長く芝居をしてきたし、経験が豊かだ。俗に言うと、私は現場で場を設けておいて、いいとこ取りするだけでよかった。撮影中、彼らに線を引きたくなかった。だから俳優達が満足するまでカットと言わなかった」

 

『黒き司祭達』は、チャン・ジェヒョン監督の長編映画のデビュー作である。チャン監督は『黒き司祭達』に関する多くの悩みを、俳優たちを通じて下ろすことができたと言った。『黒き司祭達』は悪霊に憑かれた少女ヨンシン(パク・ソダム)を救うためにキム神父(キム・ユンソク)と、彼の手助けをする補助司祭のチェ助祭カン・ドンウォン)がミステリーな事件に立ち向かう物語を語っている。

 

駆魔儀式(悪魔祓いの儀式)についても、韓国映画では初めて扱った作品である。チャン監督がこのアイデアを思い浮かべたのは、明洞のあるファストフード店であった。窓の外、一人の神父が焦り気味で誰かを待っていた。その時鮮明に見えたのが、黒いキャソックで光るローマンカラー(カトリック司祭の服に使われる、硬く立っているカラー)の白い部分であった。漠然と、この人ごみの中の彼に、世界を救うことができるような気がした。そのアイデアは悪魔祓いへとつながったという。

 

「最初シナリオを書いたときは、半分以上が悪魔祓いの儀式だった。しかし、基本的な叙事を作り、キャラクターたちに感情を与えていたら悪魔祓いの比率は低くなった。観客達は『エキソシスト』を思い浮かべるが、むしろあの映画での悪魔祓いのシーンはさらに短く描かれる。韓国の映画の中にいい標本があったら、かえって作りづらかったかもしれない。しかしデータもなく、初挑戦だったので心配はしなかった」

 

f:id:Agatho_Dica:20161110164234j:plain

 

悪魔祓いに韓国的な情緒を溶け込ませた。チャン監督は悪魔祓いの儀式に「グッ(韓国の巫俗信仰で行われる祓いの儀式)」と「ムダン(韓国の巫女)」という巫俗信仰をつなげた。実際、チェ助祭がヨンシンに合いに入っていく前にその部屋にいたのも巫女である。彼女の下血のシーンは、「さあ、挑んでみろ」という悪霊の強い勢いを予告する場面でもある。

 

「西洋の物、東洋の物という区別はあるものの、エキソシズムと祓い(グッ)には似たようなニュアンスがある。東洋では「鈴」を、西洋では「鐘」を使うといったような。巫女が祓いを進めていくと、霊媒は神の言葉を聞き、通訳する。このように、キム神父が巫女ならば、チェ助祭は神の言語を通訳する霊媒の役割を果たす。

 

もう少し細部になると、キム神父が「世襲巫」(先祖から代々と巫女の身分を引き継ぎ、巫業につとめる巫女)ならチェ助祭は「降神巫」(※神病で入門した巫女)である。キム神父は師匠から引き継ぎ、チェ助祭は過去のトラウマを克服しながら運命的に悪魔祓いの道を歩むことになった司祭なのだ」

神病:神に憑かれて、巫女にならざるをえなくなるような症状。本格的に神憑りになるような祓いをしてもらわないと、命が関わる可能性すらある)

 

悪霊はヨンシンの体でラテン語・ドイツ語・中国語・韓国語で話す。これにも彼なりの意図がひそめられている。チャン監督は「悪魔ということは、誰も知らない。だからパク・ソダムが多重人格のキャラクターのように演じて欲しかった」と言った。「ドイツ語はやや鋭い感じで、中国語は女性らしく、かついやらしく誘惑するような感じで、ラテン語は権威的な感じを生かしたかった」

 

「基本的にヨンシンの台詞は聖書の文を多々借用した。何よりも悪魔という存在をいかに描写するかが重要だったが、これは『動物の王国』を観て考えた。獅子が子鹿を捕食するシーンがあったが、親の鹿は脇目も振らずに逃げたのだ。その反面、人間は自分が犠牲になると分かっていても他人を救うのだ。ある側面では動物のほうがむしろ論理的だと感じた。それで、悪霊がより正確な数字と論理的な言葉を用いるようにと描写した」

(※動物の王国:ジャングル等、大自然での動物たちの生態を描いたテレビ番組)

 

f:id:Agatho_Dica:20161110171227j:plain

 

チャン監督は、論理的ではない人間の本性を肯定する。『黒き司祭達』の意味を「誰も知らない暗い場所で世界を救う二人の男の物語」と言ったように。悪魔祓いの儀式を扱うという新しい挑戦に挑んだ作品で彼が言いたかったのは、アイロニーにも、ヒューマニティーである。

 

重い題材だが、肯定のエナジーを与えたかった。悲しい涙ではなく、感動の涙を流して欲しかった。こういう映画だからこそ、肯定のエナジーが重要だと思う。あまりヒューマニティーを露骨的に見せるとダサくなるだろうが、人間を一番肯定したかった。台詞としてもちゃんと言っている、「我々は人間を肯定する」と。キム神父も、チェ助祭も、悪魔をつかまっているヨンシンも犠牲を払ったのだ。その犠牲が、悪魔を一番怖がらせるのだと思う」

 

彼が込めようとしたエナジーは、そのまま観客に伝わった。彼らの心を感じ取った瞬間がある。『黒き司祭達』の舞台挨拶の時であった。映画が始まる前の挨拶と、終わった後の挨拶での観客のエナジーが違っていた。「映画が終わってすぐ挨拶に入ったが、観客の眼差しを見てグッと来た。没頭して観ていたという感じだった。あの感覚を忘れられないと思う」

 

監督として成功的な出発をお知らせすることができた。彼は急がないつもりだという。色々と話が出ていた『黒き司祭達2』についても、まだ保留しておく予定だそうだ。彼は「まだ『黒き司祭達』を終えた気がしない。観客たちのレビューを読みながら勉強中だ。「こういうものが好きなのか」と思ったり、「こんなところを補完したらよかった」と惜しんだりしている」と言った。

 

「観客たちが思ったより細部に見ているということを学んだ。そういうことは、監督にとってとても勇気づけられることになる。「2回、3回見直したら良いところが見えてくる」というレビューが記憶に残っている。真に観客たちに感謝している。すぐ過ぎ去ってしまう場面で、苦労しながら作ったディティールを見てくださるというと、報われる気がする。「これからもっと気を引き締めて映画を作ろう」と感じるこの頃なのだ」